短編映画:夙昔は典範がある- 士林中元記念活動記録

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        伝統風習では、旧暦七月に「普渡」[1]という祭祀の儀式が行われる。台湾北部で最も有名なのは基隆市にある老大公廟の「鶏籠中元祭」だが、実は、士林でも一百六十年の歴史をもつ、伝統的な「芝山巖慶讚中元」の普渡儀式がある。その起源は、清朝末期の林爽文事件、台湾開拓時代の「漳泉械闘時期」[2]に由来する。戦いにより多くの死者が出たため、当時の住民たちは死者を埋葬し、普渡の儀式を行わった。その後、人々の更なる安らぎと安全を祈願するため、士林区と北投区の士林街、石牌、北山、湳雅の四つのエリアの有力者が協力し、順番で中元普渡の儀式を主催するようになった。有力者たちは、四つのエリアにある四十九の里の住民の代表となり、今年は、石牌エリアが担当となった。

        芝山巖慶讚中元普渡活動は、「大墓公」と言われる芝山巖同帰所が主な場所である。旧暦七月一日には、墓口を開ける儀式[3]が行われる。「釈教法師」は同帰所の円頂を開けるが、このことは、中の先民が外へ出て、供え物を堪能できることを意味する。続いて、士林エリアのほかの六つの「万善堂」へ向かい、「無主孤魂(無縁仏)」と呼ばれる亡霊に対し、この世に戻り供養を受け入れられることを告げる。この六つの「万善堂」は、水車辺万善堂、林仔口万善堂、牛踏橋保霊塔、芝山岩大墓公、永福里聖公媽、坪頂万善堂、内双溪万善堂である。双渓公園の向かい側にある土地公廟[4]の右側に狭い道があり、そこには一つの小さなお墓が見られる。大正五年(1916年)の文字が刻み込まれている。これは、水車辺万善堂と呼ばれる場所である。双渓公園の隣の土地公廟の左側から遠くないところにある林仔口万善堂は、普段は大勢の人が往来する場所だが、その存在が気付かれることはない。銘傳大学台北キャンパスにある牛踏橋保霊塔は、銘傳大学の学生にも知られていない存在である。旧暦七月はちょうど大学の夏休から新学期の始まりにかけての時期にあたり、大学のキャンパスに入る度に学生たちから注目を集めている。

        旧暦七月十四日の法会で最も重要なのは夜の灯籠流しである。午後は法師が先頭に立ち、石牌エリアの十六個里[5]の里長がその後に続く。自分が担当する里の名のが書かれた灯籠を持ち、芝山巖の惠濟宮から出発し、各万善堂と、士林区三大宮廟の神農宮と慈諴宮を巡回した。一行が基河路から士林夜市へ入った時は、すでに夜になっていた。夜市はいつもの人出ではなかったが、多くの観光客の注目を引き寄せ、写真もたくさん撮られていた。その後、石牌福星宮に来て、地元の住民と合流した。住民たちは、自ら描いた灯籠を持ち、一緒に洲美河双21公園へ向かった。着いた時には、そこは既に賑わっていて、人々が歌ったり踊ったりし、祭囃子にあわせて獅子も舞い踊っていた。また、地元の行政機関官、政治要人、地元の有力者なども出席していた。この儀式の重要性が伺えた。

        旧暦七月十五日の午前中は、惠濟宮で読経法会が行われた。会場の両側に置かれていた十殿閻羅の画像は、数年前に大ヒットの韓国映画《與神同行》を思い出された。見る人が恐れ敬う気持ちになる。午後は、法師と車の行列が、石牌エリアの各里を見回る「巡孤」活動を行った。夜は、惠濟宮に戻り、「放焰口」の儀式を行った。「放焰口」は釈迦牟尼仏の弟子「阿難尊者」に由来するものだが、死者の霊と餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施すことを意味する。儀式が終了後、法師は信者に小銭とキャンディをばら撒く。人々はそれを奪い合うことになるが、いわゆる「搶孤」である。奪い合う時に生じた「陽気」により霊の亡霊の「陰気」が押さえられると考えられている。但し、中国の蘇州・浙江地域から台湾に伝来した仏教では、食事の奪い合いだと亡霊に勘違いされないように、小銭とキャンディが地面に落ちる前に拾ってはいけないという考えがある。

        「放焰口」の後で一番重要な行事は「跳鍾馗」である。一般的には、その目的は、例えば二年前に台湾映画《粽邪》で表現されているように、煞気(運気を下げ、悪い気)を鎮めることにある。しかし、普渡の儀式の「跳鍾馗」は比較的に優しいものである。すでに法師の読経を聞き、供え物もいただいた以上、このまま居着いてはいけないと、亡霊に告げる。今は、パフォーマンスの要素が入っており、見学も許されているが、しかし、現場は、厳粛な雰囲気に包まれていた。人々の目線は、舞台の上の鍾馗の動きを追っていた。鍾馗の叱りの声と楽器演奏の音以外は、その他の騒々しい音と声はなかった。この儀式の厳粛な雰囲気を感じさせられた。

        旧暦八月一日に、墓口を閉める儀式が行われた。正午は法師が先頭に立ち、石牌エリアの里長がその後に続き、まず水車辺、林仔口、そして銘傳大学台北キャンパスの保霊塔を回った後、芝山巖の大墓公に戻って来た。午後は、陽明山にある陽明教養院の傍にある永福里聖公媽廟へ向かい、平等里坪頂公墓の万善堂を回り、最後は内双渓奥にある万萬善堂へ行った。これにより、旧暦七月の儀式は全部終わった。

        東呉大学人文社会科学院のUSRプロジェクトが計画した今回の密着取材では、大勢の方々から温かいご支援をいただき、多方面にわたり大変お世話になった。しかし、参会者は年配の方が殆どで、世代交代の問題が存在していることも明らかになった。それため、映像の記録により、士林の貴重な画面が保存されることを願う。また、こうした伝統活動が、新たなエネルギーが注がれることで、末永く継承されていくことを願う。

[1] 「普渡」は「あまねく済度する」の意味で、「済度」は仏教用語で衆生を苦海から救い、彼岸へ導くことである。

[2] 出身地の異なる漳州泉州の人々の間で起きた武力衝突のことである。

[3] 霊があの世からこの世にやってくることを告げる。ここから一カ月の「鬼月」が始まる。

[4] 土地神様を奉る廟のこと。

[5] 台湾における行政区分では、「里」は、最も小さな行政単位である。

(文字・図・撮影/台湾東呉人文社会科学院USRプロジェクト)


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